建前もほどほどに
それぞれがじぶんで選択してその人生をワクワクしたりイライラしたり悲観したり
優越感に浸ったり嫉妬したりウキウキしたりして楽しんでいる。
わたしは悪くない、こうなってしまったという選択の仕方を採用したり、
こうなりたいの!で選択したり。いろいろ。
それぞれが、わたしを喜ばせるために存在している訳じゃないし、
わたしもその人を喜ばせるために存在している訳じゃない。
わたしは○○だからこれをしてはいけない。だからあの人もこれをしてはいけない。
わたしは○○だからこれが当然。だからあの人も当然。
という思い込みで人が生活している。
人に許さないことは自分にも許さない。
自分い許さないことは人にも許さない。
そのルールをそれぞれが脳内で勝手に作って生きている。
そう思うようになったら、「建前」って迷惑だなぁと思うようになりました。
コミュニケーション、円滑、組織、社会性、
そりゃぁ建前というか上手く行かせるための配慮は大事。
じぶんの人間関係は選べるけれど、子どもに付随する人間関係は
わたしの決定権を超えて成型されるわけだし。
でも、建前も、ほどほどに。
やんわり断ったらまた来る。相手は見込みがあると思って来る。
こちらは迷惑だと思って受ける。そして相手が悪いとさえ思う。
じぶんが、そこに時間と労力を使うと決めたのに。
相手の時間と労力さえも使わせる選択をしたのに。
きっぱり断われたら、相手はわたしに時間も労力も使わなくなる。
わたしも使わなくなる。お互いハッピー。
子どもが芋虫をプレゼントしてくれて、喜んだら、また持ってくる。
嬉しくないのに、喜ぶふりを毎回することになる。
子どもは喜んでほしくて毎回そうする。
でも実は嬉しくなかったと後で聞いたら、悲しいと思う。
その配慮の気持ちも嬉しいけれど、それなら折り紙を折ったり
手紙をもらえたらもっと嬉しい♪と初めに教えて欲しかったなぁと思う。(わたしは、ね。)
じぶんが合うと思って付き合っていたなんでも話せる人が、
実は無理して合わせていてしんどかったとしたら。先に言ってくれよと思う。
じぶんの時間も労力も使うのなら、はじめから断ってもらえたら
本当に合う人にだけ時間も労力も使えるのに。
なので最近は「ふーん。」とか、「あ、それ興味ない」
と無関心や興味がない事を示してくれる人ってありがたいなぁと思う。
だって、本音でしょう?本音が言える人は表裏がないということ。
むしろ興味がなくていいから他の話題で付き合いたい。笑